私の目の前にはカツ丼が置かれている。
正確に言うと、ただのカツ丼ではない。カツ丼定食だ。
根菜とネギがたっぷりの味噌汁が入った椀と、申し訳程度に柴漬けが乗った小皿、それらが1枚の盆に共存している。
しかし何と組み合わせたところでカツ丼が怯むはずがない。
大振りの丼にどっかりと米が詰まり──そしてそれが決して上げ底ではないという確かな重量感を持っている──、その上には熱々の分厚いカツと、それを包む出汁の香りがする卵、それから色鮮やかな三つ葉と、カツ丼の威風堂々たるや柴漬けなぞ歯牙にもかけぬといった風情。
豚の甘い脂身はとろんと半熟になった卵の黄身に包まれて、私に食べられるのを待っている。
私はそれを箸で上品につまむか、あるいは匙で豪快にかっ込むか、丼から上がる湯気の中で逡巡しているのだ。
だが、私の手がしばし止まっているのは、箸匙問題のせいのみではない。
果たして私はこの黄金色に輝く山を征服できるのか、と怖気づいているのだ。
そもそも普段は肉の塊なぞ食べやしないし、それにパン粉をまぶしてギトギトの油で揚げるなんて暴挙とも無縁だ。
ましてや、両手でも持て余す程の大振りの丼に米をぎゅうぎゅうと詰めて食すなど、そんなのは極楽でのお楽しみだと割り切っている。
はっきり言おう。
カツ丼の量が、多過ぎる。
しかし私は、実はこうしてカツ丼を目の前に途方に暮れる事態に陥ることを予見していた。
カツ丼はシルバニアファミリーのウサギが愛用するようなサイズのボウルに盛られている、なんてことを夢想したことはただの一度もない。
ましてやメニューにはご親切にもカツ丼のカロリー数が明記してある。
その数値は、実に800キロカロリー。
みくびらないでほしい、私とて800キロカロリーがいかほどの破壊力を秘めているかは重々承知している。
茶碗4杯分もの米に匹敵し、しかもカツ丼ともなれば肉の脂質がカロリー以上の重量感をもって初老の胃腸を責め苛む。それくらいのことは、よく分かっている。
それなのに、なぜあえて私がカツ丼定食を注文したのか。
それは、カツ丼を食べたかったからだ。
分かっている。勝てない勝負に挑むほどの愚行は、ない。
ガリヒョロのモヤシっ子がボクシングのヘビー級チャンピオンに喧嘩を売るのに一体何の意味があるだろう。重いパンチに生きる意味を見出すとでも?
否、身に過ぎる行為は消耗でしかない。
初老は初老がましく、弱った胃にも優しい蕎麦でも啜っていればいいのだ。
だが私はカツ丼に挑む。
さっくりしたカツの衣に出汁が沁み、時間が経つほどにしんなりとする食感。
豚肉から溢れる甘い肉汁は淡白な卵に濃厚な旨みを与え、そのどっしりとした味わいに鮮烈な三つ葉の香りが間の手を入れる。
そして出汁も卵も肉も何もかもを受け止める米!
カツとじなど、この薄茶色に変化した米のおまけのようなものだ。と言われても大いに首肯せざるを得ない。
断言しよう。私は弱い人間だ。
己の欲望のためなら周囲にあらゆる犠牲を強いる罪深い存在だ。
カツの一欠片、米の一粒まで残さず食べる、という行為を完遂できないと分かっていながら、それでもカツ丼を注文してしまう非情な女なのだ……。
この黄金色に輝く魅惑的な山のどれほどを私が食べられるかというと、せいぜい半分でしかない。
私も数十年間ぼーっと生きてきたわけではなく、1食当たり400~500キロカロリー程度の摂取が適切だということくらいは体感している。
それより少ないと3食では基礎代謝が賄えずにひどく怠くなるし、それを超えると腹がくちくなるわ眠くて仕事にならないわ碌なことがない。
800キロカロリーもあるカツ丼を完食しようなどという試みは、モヤシっ子がヘビー級チャンピオンになろうとするよりも無謀である。
これがもし20年前の私ならカツ丼に勝てたかもしれない。てゆーか勝ってた。
だが老兵には酷な戦いだ。そして勝負の見えている戦いには挑まない程度の知恵はある。
というわけでスミマセン、半分残します。
半分残しても普段食べつけていない揚げ物が胃にもたれて、午後は白目を剥いて仕事してます。
はははは、笑わせてもらいました。
いつもと違った感じで、食は同感。
男ですが食べれなくなりますね。
淡白なのがよくなるけど、たまにはがッッりといきたいのですがーね
いかんせん、胃袋が追いつかなくなりました。
そーなんですよ。
絶対食べきれないと分かってるのに口卑しくて注文してしまうという。